【忘れえぬ人】山田みどり先生との思い出

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2023年4月25日、ロシアをはじめCIS諸国、そして世界に日本文化を広めご活躍された山田みどり池坊総華督が天国に旅立たれました。1993年にモスクワに華道 池坊のCIS支部を創設し、2008年には旭日双光賞を受賞。天に召されるその日までCIS支部の代表を務められました。ロシアで暮らしていて「その名を知らないものはいない」と言っても過言ではないほど、誰よりもロシアを愛しロシア人に愛された山田みどり先生。いつも美しく、いきいきと才能に溢れ、身の回りの方のために尽力された、私の憧れの女性でした。

 

みどり先生との出会いは、シェレメチェボ空港からドモジェドボ空港へ、
JALの空港が移転することになった記念式典で司会をさせていただいた時でした。外国での式典でしたので「ぜひお着物で司会を」ということになり、ご紹介いただいたのがみどり先生でした。

ご自宅へ伺うとお手持ちの着物のなかから式典に合いそうなものを選んでくださり、お宅にいらしたロシア人のお弟子さんたちと一緒に夕飯の支度をさせていただいて、おしゃべりしながら楽しい食卓を囲みました。お料理上手なみどり先生は手際良く、ロシアの食材と日本から持参してきた調味料でぱぱっと和食を完成させていき、そのたびに日本に関心を持つお弟子さんたちの目が輝きました。食後には、お手製のお菓子まで出してくださって、茶道のお稽古に使ったのこりなのよと出してくださったお干菓子の美味しかったことといったら!

式典当日も、みどり先生の御宅で着付けしていただいて、そのままご一緒にタクシーで式典へ。来賓として招かれているみどり先生でしたが、司会として務める間も近くで優しい笑顔で見守ってくださって、とても心強かったのを覚えています。

日本政府観光局(JNTO)による観光博。在ロシア日本ブースで司会させていただいたとき

この式典がきっかけでお着物での司会も増えて、みどり先生にはそのたびにお世話になりました。「みどり先生の存在そのものがお手本で、そばにいられるだけで学ぶことがたくさんあるので、身の回りのちょっとしたお世話をさせてもらえることも嬉しい」と、ご自宅にはいつも入れ替わり立ち替わりロシア人のお弟子さんがいらっしゃいました。驚くことに、みどり先生の教えていらした池坊や表千家だけでなく、華道や茶道に関してもさまざまな流派のお弟子さんもいらして、日本文化に関して学びたいならとにかくまずはみどり先生に・・・という師弟関係は、ロシアにおいて、すべてのロシア人にとっての「センセイ」なのだと感じました。用事のあるときもないときも、日本文化に造詣の深い著名な方も初めて興味を持った学生さんも、すべて同じように迎えてくださる、そんな懐の深い母のような存在のみどり先生のおもてなしスタイルは、ロシア流でもありました。

△肌の内側から輝くようなみどり先生の美しさ!オススメの美容法なんかもお尋ねしたりして。あの胎盤をつかった化粧品「魔法の鏡」シリーズは、みどり先生に教わりました。

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私の結婚式にも、みどり先生は参列してお祝いしてくださいました。息子が誕生し、成長していく様子を、モスクワへメールしたり(パソコンは得意じゃなくてと、また晩年は目が辛くてとおっしゃりながらも、すぐに温かな返信をくださったみどり先生)、一時帰国されると銀座で待ち合わせして和菓子屋さんでかき氷を食べながらおしゃべりしたこともありました。東京特派員として、みどり先生のインタビューをいつかと用意しながら、みどり先生の多忙なスケジュールや多岐にわたる長年のご活躍ぶりに、回を分けてお話を伺っているうちに「ロシアの声」の日本語放送が停止してしまい、未完のままになってしまったことが悔やまれます。今、そのときの取材メモを書き起こしていきたいと思います。

△2017年にふたたびモスクワ暮らしがはじまると、すぐにご連絡して植物園のイベントで再会することができました。モスクワの日本大使館の近くにある道場のなかにお茶室をつくるプロジェクトについて熱く語ってくださったみどり先生。

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みどり先生やそのお弟子さんたちの主催される展覧会やさまざまなイベントにお声がけいただいて足を運びました。華道はもちろん、茶道、書道、墨絵、和食や和菓子づくり・・・ありとあらゆる日本文化に精通していらっしゃる“大和撫子の鑑”のようなみどり先生のスーパーレディぶりにはいつも驚くばかりでした。日露交流年の舞台では、日本舞踊も披露されていたっけ・・・!

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△『山田みどりのロシアありのまま』(ほんの木)は、1994年2月にジャーナリストの岩井田恭さんがまとめた、山田みどり先生のインタビューです。日本文化の伝道者として類い稀な存在として知られるみどり先生ですが、それまでの軌跡も知ることができます。本に収録されているインタビューは、1993年頃当時のロシアの生活の様子がありのままに描かれている貴重な資料であり、日本とソ連の経済関係の架け橋として当時のみどり先生の活動や提言が記されています。私がインタビューしたときのみどり先生の言葉と合わせてご紹介していきます。

旧満州で7歳のときに敗戦を迎え、建築家のお父様がソ連進駐軍に厚遇され、ソ連人の子どもたちが通う学校へ通ったことで、ロシア語やロシア文化に親しみました。引き揚げ後は、鎌倉の裕福な家庭のお嬢様として、華道や茶道、日本舞踊にお琴、懐石料理などさまざまな習い事に励み、ありとあらゆる伝統芸能を身につけていきました(あの品格溢れる身のこなしは、お育ちの良さに加えて伝統芸能を極められた無敵のものだったのですね・・・!)。そのままお嫁に行く道を選ばなかったみどり先生は、社会党の代議士秘書の仕事をみつけて自立(秘書仲間だったのは小渕元総理、海部元総理、小泉元総理のお父様など)。議員秘書として、アルジェリアなどで開催された平和友好祭へ同行したり、ソ連から要人が来た時の懇親会や懇談会、ソ連大使館での交流会など、日ソ友好団体(日ソ親善協会)に関わるうちにロシアとのご縁が復活していったといいます。ご家庭の事情で議員秘書を辞めてから、ご自身の言葉では「更年期障害への反発として(!)鎌倉でうじうじ悩んでいるよりも、それを忘れて乗り越えられるものはないかと思って、ボケ防止に頭を働かすとか、指を動かすとかしてみようと(笑)」ふたたびロシア語を学び始めた学校(神奈川県日本ユーラシア協会)で目にした留学生募集に応募。「まわりは現役の大学生ばかりでしたから無理だろうなと思っていたのに合格しちゃったんです」と、3年間のモスクワ留学へ。ソ連との友好は困難な時代で、まだ一般家庭にはテレビもなく、ロシア語を学べる場所も少ない時代でしたし、今のように女性が海外留学したり生涯の仕事を持って働くこともまだ珍しい時代でした。「このまま平凡に終わりたくないという思いはありました。強いて言えば幼児の頃のロシア体験への郷愁でしょうね」

「忘れもしない1月28日のことです。10人くらいの学生に混じってシェレメチェボ空港におりたちました。もう寒くて寒くて、ありったけの服を着込んだことを覚えています。でもね、寮のデジュールナヤのおばあさんが日本のお土産をあげたら喜んで毛布をくれたのよ。」モスクワ自動車工業大学の国際学部ロシア語科で若い学生とともに勉学に励んだみどり先生。「寮は2人部屋で、勉強机なんて1つしかありませんでした。もう1人は20歳そこそこの学生さんでしょ。こちらは母親みたいな気持ちになっちゃって、彼女の勉強が終わってから自分が勉強をして、毎日夜中の2時3時まで・・・それはそれは勉強しました。人生であれほど勉強したことは後にも先にもあの時くらいでしょう。」

「他の学生さんたちは6ヶ月くらいで帰国しましたが、私は4年で卒業し、その後モスクワ大学の大学院に入りました。卒論?松尾芭蕉の『奥の細道』を取り上げました。この研究をなにか形にしたくて、今(取材当時)弟子たちと、松尾芭蕉をテーマにした墨絵の画集を作っているんです。私も2、3枚描いてね。あとは弟子たちが1ページずつ描いていくスタイルなんですけども。ほら、とにかく弟子が多いでしょ?もうページが足りないくらい・・・!みんな心を込めて場所の世界を描いています。」

「(シチェルチェスキー?)先生は日本の権威でね、茶道もやっている先生なんですけども、すごく難しいことを聞いてくるんです。7:3の構えとは何か?とか、三教東学の三教ってなにか?とか。そういう日本人でも難しいことを答えられるような、説明できるような、伝えられるようなロシア語が欲しかったんですね。」

「私は言語学を専攻しましたが、政治や経済の通訳は引き受けないんです。感情が入っちゃって通訳できない。お花に必要な、自分の伝えたいことを伝える通訳だけ引き受けることにしています。」

留学期間後もここにとどまりたいという想いから請われるままにロシアで生花を教えたり、ロシア科学技術アカデミーの営業部長として活躍をはじめます。日本滞在中に、当時の江田科学技術庁長官や民間経済人と面談して人脈を広げ「経済混乱が続くロシアは、戦後間もない日本と似ている。戦後の荒廃から立ち上がった日本の経験から、ロシアに手を差し伸べ指導してほしい」という思いから、示唆に富んだ提言や具体的なプランが提案されていました。科学技術アカデミー総裁や科学者などのインテリ層、大学時代の研究者や学友、そして生花を通して繋がる花を愛するロシアの市井の人々・・・みどり先生の目を通してたくさんのことを知ることができます。

「CISはどの国も行きました。どこもいいところですよ。カムチャッカもサハリンも、いろんな田舎の町にも呼ばれていきましたけど、どこにも、そこでしか見られない景色と、そこでしか出逢えない人たちがいます。素晴らしい人は、どこの国であってもやはり素晴らしいものですし、そういうのは、子どもでも、いえ、子どもの方がよく分かったりするものですよ」

「ロシアへ飛び込んだ時もそうですが、ツアー旅行みたいなのは苦手なんです。表面ばかりなぞっていても、表面的なことしか分からないからね。地図を調べて苦労して切符を買って。旅のスタイルも生き方もそんな感じかしら(笑)。いつも一番興味があるところへ一人で行く。そうすると相手もしっかりと迎えてくれるんです。一緒に寝起きして一緒にご飯を食べて、そういいう付き合い方をしないとね、本当の意味で広い視野を持てるようにはならないから。」

「(インタビュー時)20周年になる来年9月に大きな展覧会を考えているんですよ。この20年の集大成として恥ずかしくないもの。実はロシア人の弟子たちにほとんどを任せてみようと思ってるんです。これが成功したら、これから任せてしまおうって。」

「(インタビュー時)サンクトペテルブルクの国立植物園に日本庭園を作っています。図面から引いて、石の位置までひとつひとつこだわって、そこに桜を持っていくつもりなんです。本当は藤の花のアーチを作りたいんですけど、やはり北国ですから育たないようで桜にしました。ダーチャ(郊外の菜園つきの別荘)を持っているお弟子さんたちにも、モスクワの大使館にも、1本ずつ差し上げようと思うんですよ。花はそのときどき、生き物で形を残すものではないから、木をね、植えようと思ってるんです。大切に育ててね、花を咲かせたら想い出してくれるかしら・・・?」

みどり先生と出会った2007年、再会した2017年、そして今2023年。

心からご冥福をお祈りしつつ、敬愛してやまない偉大な山田みどり先生の思いを、私なりに受け継いでいけたらと思います。

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