函館 ロシア人墓地とカフェテリア モーリエを後にして旧ロシア領事館へ・・・。その道のりでもたくさんのロシアに出逢いました。
△開港当初はイギリスやフランスの領事館が置かれていた称名寺。境内には新撰組副長 土方歳三の供養碑や高田屋嘉兵衛の顕彰碑が置かれています。
△(お写真は函館市公式観光情報サイトはこぶらさんより)
一方、箱館開港後の1858年、ロシア領事の着任当初にロシア領事館としても利用されたのは、実行寺。
△正門前には、大東亜戦争戦死病殉者供養塔、日露役戦死忠魂塔が建っています。
ほかにも、代表作『若きカフカス人』で知られる近代彫刻の先駆者 中原悌二郎の墓もありました。
この作品を収蔵している茨城県立美術館の公式サイトによると、モデルはコーカサス(カフカス)生まれのニンツァという名の青年です。アジアを放浪していたニンツァは、大正8年来日しますが、かつてハルビンで知り合った画家の鶴田吾郎の友人を介して、新宿のパン屋中村屋に滞在することになりました。中村屋に出入りしていた中原悌二郎は、この頃茨城県平磯で病気療養中のため空いていた友人の画家中村彝のアトリエを借りて、ニンツァをモデルに頭像の制作を始めます。悌二郎の妻信(のぶ)によると、制作が始まって1週間が過ぎた頃、ニンツァがモデルになるのを嫌がりだし、制作途中の作品を「鬼の顔」だと言って壊そうとしたそうです。力強い肉付けによる彫りの深い顔は意志の強そうなモデルの性格をよく表しており、また荒々しいタッチが作り出す陰影が異邦人ニンツァの神秘的な雰囲気を伝えています。この作品について信は、「『鬼を作る』といふのも無理ないと思われる位、ニンツァの虚無的、破壊的な凶暴性といったものがにじみ出て居る。」と回想しています。さらに1週間制作を続けた後、本当に壊されかねないと思った悌二郎は早々に石膏に取り、鋳造までしてしまったといいます。わずか2週間で制作された「若きカフカス人」は、「憩える人」とともに第6回院展に出品され、高い評価を得ました。特に「若きカフカス人」は手法、精神性の両面において絶賛と言ってよいほどの評価を受け、今後の活躍が期待されましたが、その約1年半後、悌二郎は結核により、短い生命を閉じました。また、中村彝が翌年描く『エロシェンコ氏の像』とも深いかかわりをもつものといわれています。
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