8月10日、ロシアの飛び地カリーニングラードへやってきました!
世界最大の国土を持つロシアですが、その最西端に、飛び地の小さな州を持っています。ポーランドとバルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)との間にあるカリーニングラード州です。
もともとはドイツ領のケーニヒスベルクでしたが、1945年、第二次世界大戦で、ナチス・ドイツ軍と赤軍との激しい戦いで壊滅してしまったケーニヒスベルクの街は、終戦とともにソビエト連邦のものとなり、最高会議幹部会議長であるカリーニンの名をとってカリーニングラードと名づけられました。その後ソ連式に都市化されソ連人が移住してきたこの町は、ソ連崩壊後まで閉鎖都市となり、外国人は立ち入ることができませんでした。
△今日は町の中心を流れるプレゴリャ川沿いを探検してみましょう!
△まず目に入るもの、街の中心にでんと鎮座するのは・・・カリーニングラードのランドマークになるはずだった廃墟の“ソヴィエトの家”!ここにはかつて、中世の赤煉瓦造りが美しいケーニヒスベルク城(王の城)や城塞がありました。戦後、ソ連によって城は破壊され、代わりに1975年ビジネスセンターの“ソヴィエトの家”が建てられ、そして完成することもなく廃墟となって現在まで残っています。ちなみにケーニヒスベルク城の地下はお墓だったそうで、今もその呪いが・・・なんてささやかれたりもしています。
△橋を登って目抜き通りのレーニン大通りへ。向こうに見えるいかにもソ連的な建物はホテル・カリーニングラード
△橋には、ロシアで初開催された2018年ワールドカップの名残りが・・・
△中洲カント島にあるゴシック様式の大聖堂(Кафедральный собор)。ソ連時代は廃墟のままで放置されていましたが、近年ドイツとの協力で修復されました。
△水門のような階段から橋を降りて、カント通りをまっすぐ聖堂へと進みます。
聖堂の内部にはプロイセンとケーニヒスベルクの歴史関連資料が展示され、上階はドイツの哲学者カントの博物館になっていました。イマヌエル・カントはここで生まれ育ち、ケーニヒスベルク大学の教授として生涯を過ごしました。
△ケーニヒスベルクの町を再現したジオラマ。美しい水の都!ケーニヒスベルクをテーマにした沢山のステンドグラスも見所です。ドイツ騎士団の紋章や武器、衣装なども。
△カントの図書室
△ケーニヒスベルグのなかの日本!書の掛け軸や日本の硬貨も展示されていました。第2次世界大戦中には、大量のユダヤ人にビザを発給して命を救った日本人外交官の杉原千畝氏も一時期ここケーニヒスベルクで働いていました。
△只今リハーサル中!パイプオルガンが自慢の音楽ホールではコンサートも催されていました。
△建物の裏手には哲学者カントの眠るお墓もありました。
また、大聖堂の周りは緑の美しい彫刻公園になっており、たくさんのロシアの偉人の彫像がありました。
△ピョートル1世像
△チャイコフスキー像. △ガガーリン像
ほかにもたくさんのユニークな彫像が点在していました。
△もちろん、琥珀のお店もずらりと並んでいます。
→続く(【中世ドイツ、ソ連、そしてロシア!融合の飛び地カリーニングラード】理想と現実!廃墟“ソヴィエトの家” を眺めつつお寿司・・・)