【モスクワ通信】新たな一面を発見!モスクワのなかのイギリスをピックアップ

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ロシア文化フェスティバルblogより)

ロシアのなかの日本や、日本のなかのロシアを見つけると日露交流の歴史の1ページや知られざる両国の絆を感じることができます。モスクワのなかで日本を感じる場面もたくさんありますが、例えばどこかひとつの国との関係や縁のある場所をピックアップして見てみると、モスクワの新しい顔に出会うことができるかもしれません。今回は、モスクワのなかのイギリスを探してみることにしました。

1、世界で唯一!?シャーロック・ホームズ&ワトソン像と英国大使館前の詩の小道

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△煙草を呑みながら事件を推理するホームズと、横でメモを取るワトソンの銅像。ホームズとワトソンの両方が揃っている銅像は世界で唯一とも言われています。ふたりの間に腰掛けて、ワトソンのメモ帳に触れると願いが叶うと言われているそうで、ベンチのワトソンの隣とメモ帳を持つ左手がピカピカ光っていました。一方、ホームズのパイプに触れるとトラブルに巻き込まれるので要注意!?

2007年に完成したこの銅像、顔が英国人というよりもロシア人風なのも大きな特徴のひとつです。実は、ソ連時代のTVドラマシリーズ『シャーロック・ホームズとワトソン博士(Шерлок Холмс и Доктор Ватсон)』(レンフィルム、1979年)でホームズ役を演じたワシーリー・リワノフ(Василий Ливанов)とワトソン役のヴィターリー・ソロミン(Виталий Соломин)の顔をモデルにしているのだそうです。名探偵ホームズに関する作品のなかでも最高傑作のひとつに数えられており、主演のワシーリー・リワーノフはエリザベス女王から大英帝国勲章を贈られました。

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△ホームズ&ワトソンの銅像がひっそりと置かれているのは、在ロシア英国大使館の建物(左)のモスクワ 川に面するスモレンスカヤ・ナベレジナヤ通り沿いの緑地です。銅像から正面エントランスへ続く塀は、イギリスとロシアの詩人や作家たちの作品を記した金色プレートが埋め込まれています。シェイクスピア、プーシキン、ワーズワース、エセーニン・・・この小さな詩の小道はもうひとつの見所になっています。

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△英国大使館とともに大使公邸もモスクワで最もイギリスな場所といえます。大使館もモスクワ川沿いの眺めの良い場所でしたが、大使公邸もモスクワ川の向こうにクレムリンを臨む素晴らしい立地です。もともとは帝政ロシア時代にモスクワとサンクトペテルブルクへ砂糖を供給する国内最大級の工場を所有していた大富豪ハリトネンコ家が建てた邸宅でした。ここには、ハリトネンコが収集した絵画が飾られ、催されたパーティやサロン・コンサートではシャリャーピンやスクリャービンも演奏を披露したそうです。革命後ハリトネンコ一族はロシアを離れ、邸宅は国営化されてしまいました。1931年から英国大使館となり、エリザベス女王が1994年のロシア公式訪問の際にここを訪れているほか、ウィンストン・チャーチルやマーガレット・サッチャーなど歴代の宰相も滞在しているそうです。現在は大使公邸となっており、年に一度開催されるクリスマス・バザーでは、ブリティッシュスクールの子どもたちのクリスマスキャロルの歌声が響くなかミンスパイを味わいクリスマスクラッカーやお手製ママレードを購入したりもできます。

 

2、モスクワのなかの英国教会St. Andrew’s Anglican Churchとサッカーの伝来

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△モスクワの街では、あちらこちらで美しい教会と鐘の音に出会うことが出来ます。その多くはキリスト教の一派であるロシア正教の教会で、玉ねぎ型(ろうそくの炎の形)の教会屋根や、独特の十字架の形が特徴です。多民族多宗教のモスクワでは、そんなロシア正教の教会以外にも、ゴシック建築のローマ・カトリック教会やルター派のプロテスタント教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグ、そして英国国教会St. Andrew’s Anglican Church(日本語:聖アンデレ聖公会教会、ロシア語:Англиканская церковь Святого Андрея)もあります。現在の英国の国教はイングランド国教会(Church of England)。キリスト教のなかでも、カトリックやプロテスタントと異なり、国家元首を首長としているのが大きな特徴で、女王の戴冠式やロイヤル・ウェディングなどで重要な役割を果たしています。1553年イワン雷帝がロシア正教以外の宗教を容認。モスクワの英国国教会St. Andrew’s Anglican Churchは、建築家Richard Knill Freeman率いるプロジェクトにより1884年に建設されたヴィクトリアン・ゴシック建築の建物です。ソ連時代には閉鎖されていましたが、教会内部の音響の素晴らしさからメロディヤ(Мелодия)社(1964年設立のロシア最大のレコード・レーベル)のスタジオとして利用されていました。その後、再び教会として扉が開かれ、1994年10月のエリザベス女王のロシア公式訪問を期に、建物は正式にロシア政府より教会に返還されました。現在は教会としての役割のみならず、素晴らしいコンサートホールとしてもモスクワ市民に愛されています。

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△さて、イギリスからロシアにもたらされたスポーツとして有名なのは、サッカーとクロッケーです。

St. Andrew’s Anglican Churchの後援者の一人スコットランド人のウィリアム・ホッパー(William Hopper)は、モスクワで初めてサッカーの試合を開催した人物としても知られています。ホッパーの工場で働いているイギリス人たちがサッカーを始めると、200〜300人ものモスクワっ子たちが集まって試合を見ていたそうで、その様子が当時の1895年の新聞記事にも残されています。(写真は1912年のモスクワ対フィンランド戦 St. Andrew’s Anglican Church公式サイトより)

さらにロシアで最古のプロチームのひとつが組織されたのは、モスクワ東部のオレホヴォ=ズエヴォ(Орехово-Зуево)と言われています。イングランド北西ランカシャー地方を本拠地とするBlackburn Rovers F.C.のサポーターだったイギリス人Harry Charnockが中心となり。初期の頃は、英国から運ばれた芝の上で、Blackburn Roversのユニフォームを着用してプレーされていたようです。現在のFC Znamya Truda Orekhovo-Zuyevoに繋がっています。

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△一方、クロッケーは1860年代に伝わったといわれているゲートボールにも似たスポーツです。(野球に似ているクリケットとは異なるスポーツです。)文豪チェーホフもクロッケーの愛好家だったそうで、チェーホフが1892〜1899年に暮らしていたモスクワ郊外メリホヴォの邸宅(現在はミュージアム)のそばには、古いクロッケー場もあるそうです。トルストイの『アンナ・カレーニナ』をはじめロシア文豪の作品にもクロッケーのシーンが登場します。レーニンやガガーリン などもクロッケーを好んだと言われています。(写真はRussian Interregional Croquet Federation公式サイトより)

 

3、イギリス人建築家William Walcotによるホテル 老舗メトロポールとマルコ・ポーロ

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△1905年創業の最高級老舗ホテルのひとつである«Метрополь»(メトロポール)。赤の広場からすぐ、ボリショイ劇場の向かいという素晴らしい立地で、各国から訪露する要人・著名人御用達のホテルとしても知られています。鉄道王サーヴァ・マモントフの依頼で設計された建物は、ロシア・モダンの最高傑作のひとつとされています。当初はコンペで優勝したロシア人建築家レフ・ケクシェフ(Лев Кекушев)とニコライ・シェビャコフ(Николай Шевяков)のプロジェクトで進められる予定でしたが、マモントフによってなぜかコンペで4位だったイギリスの建築家ウィリアム・ウォルコット(William Walcot)に変更されました。マモントフは当初“ホテル付きの劇場”をイメージしていたようですが、結局は“レストラン付きのホテル”となり、またケクシェフとシェビャコフも最終的にはプロジェクトに参加しました。この美しいホテルは、ミハイル・ヴルーベリのモザイク画の装飾も有名ですが、噴水と美しいステンドグラスの天井があるグランドダイニングもゴージャスで、館内ツアーつきのブランチや優雅なロシア風アフタヌーンティーなど宿泊以外でも特別なひとときをお楽しみいただけます。ちなみに他にもいくつかの邸宅をデザインしているウォルコットの作品は、現在でもモスクワに残されており、なかにはケクシェフとの共作もあります。1908年にはロンドンへ帰国し、St. James Streetに質素な家を建てて暮らしていました。晩年は建築家としての活躍はあまりなく、1943年69歳で自殺してしまいます。

モスクワ通信『老舗ホテル メトロポールで優雅なアフタヌーンティー』

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△また、モスクワの4つ星ホテル«МАРКО ПОЛО ПРЕСНЯ» (マルコ・ポーロ・プレスニャ)も1904年にウォルコットによって建てられたもので、革命前までイギリスの商人ロバート・マクギル(Robert McGill)の未亡人ジェーン・マクギル(Jane McGill)によって修道院として使われていたそうです。ジェーン夫人は夫の死後もモスクワで暮らし、積極的に慈善活動に従事していました。英国教会St. Andrew’s Anglican Churchにも金銭的な援助を行っており、特に教会の司祭館の建設に多大なる寄付をしました。1917年革命の年に、館に突然男が押し入るという悲劇的な事件に見舞われ、締め出されてしまった夫人は体調を崩し、英国教会に運び込まれたものの回復することなく亡くなってしまったと言われています。(写真は1908当時 «МАРКО ПОЛО ПРЕСНЯ»サイトより)

 

4、スコットランド技師によるユニークなデザイン!赤の広場のスパスカヤ・タワーの時計とイギリスの血を引く!?モスクワ創設者ユーリー・ドルゴルーキー

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△ロシアの中心、赤の広場のシンボルのひとつにもなっているスパスカヤ・タワーの時計。毎年夏にはスパスカヤ・タワーの名前が冠された国際軍楽祭が開催されますし、新年を迎える時もこのスパスカヤ・タワーの時計がTVに映し出されカウントダウンされ、12時を迎えると美しい鐘の音が響き渡ります。ロシアにとって重要なこのスパスカヤ・タワーの時計は、ロマノフ王朝時代にリニューアルされ、モスクワで初の鐘のなる時計となりました。ロシアの建築家バジェン・オグルツォフ(Бажен Огурцов)とスコットランドの技師クリストファー・ギャロウェイ(Christopher Galloway)によって設置され、針がまわる通常の時計と異なり、時計の文字盤自体が回転するように工夫されており、これは何事もユニーク成すロシアの特色を反映させてデザインされたものなのだそうです。

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△モスクワの中心で、知られざるイギリスとの意外な繋がりといえば、モスクワの創設者としてモスクワ市庁舎前に銅像があるユーリー・ドルゴルーキーЮрий I Владимирович ‘Долгорукий’)も忘れることはできません。父親のキエフ大公ウラジーミル2世モノマフは何度か妻を迎え、そのなかの一人にはングランド王国ウェセックスの生まれでアングロ・サクソン系イングランド王ハロルド2世の娘ギータ・オブ・ウェセックス(Gytha of Wessex)がいました。ユーリー・ドルゴルーキーの母親については諸説あるため、モスクワを創ったユーリー・ドルゴルーキーがもしかしたらロシアとイギリスの血を引く可能性もゼロではないと言われています。なお、当時のルーシのスーズダリに居を構えつつ、南方まで手を伸ばして攻め入ったところから、ロシア語で「長い手」を意味するドルゴルーキーと呼ばれるようになったそうです。

 

5、スコットランドの貿易商人のお店から歴史がはじまる高級百貨店ЦУМ(ツム)、イギリス人企業家マイケル・マドックス(Michael Maddox)とボリショイ劇場

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東ヨーロッパ最大級の高級デパートЦУМ(ツム)は、もともとサンクトペテルブルクで店を持っていたスコットランドの貿易商人アンドリュー・ミュア(Andrew Muir) とアーチボルド・メリリーズ(Archibald Merrilees)が、モスクワに1885年に今のツムのある場所に店を開いたのがはじまりです。今日までずっと洗練された流行の最先端のファッション雑貨でモスクワっ子たちを魅了してきました。現在ではオンラインストアへのEメール注文は一般的になりましたが、この当時からカタログを発行し、手紙での受注販売もしていたそうです。ヨーロピアン・ゴシック様式の美しい建物は、ボリショイ劇場と隣り合っており、昼も夜のライトアップも美しく、その外観でも訪れる人を楽しませてくれます。

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ロシアを代表するボリショイ劇場は、18世紀後半にピョートル・ウルソフ公爵の私設劇場として始まりましたが、興業を維持するためには莫大な費用がかかるため、イギリス人企業家マイケル・マドックス(Michael Maddox)がビジネスパートナーとして支援していました。

モスクワ通信『改装後のボリショイ劇場本館』をご紹介!

マイケル・マドックスは劇場のみならず、広い屋外庭園を作ったことでも知られています。最も有名なものとしては、ロンドンのVauxhall Gardenから名をとってタガンカ周辺に作られた“ヴァクザール”で、19世紀半ばまでモスクワっ子たちにとても人気がありました。現在はロシア語で鉄道駅を意味するヴァクザール(вокзал)は、この頃までは屋外庭園を意味する言葉でした。ロシアの専門家たちは鉄道の建設技術を学ぶために、イギリスへ渡ったのだそうです。

さらに鉄道だけでなく、実はモスクワの地下鉄もイギリスと縁のあるエピソードが見つかりました。絢爛豪華な装飾が施され地下宮殿とも称される駅構内で人気の観光名所にもなっているモスクワの地下鉄メトロポリテン(Метрополитен)は略してメトロと呼ばれていますが、ソ連時代の1930年代に建設が始められました。世界初の地下鉄が建設されたことで知られるロンドンでは、メトロポリタン鉄道会社(Metropolitan Railway Comoany)によって最初の地下鉄の路線が建設され、1863年1月10日に、パディントン駅からファリンドン駅の間で開通しましたが、このメトロポリタンという会社名からソ連時代の地下鉄がメトロポリタンと呼ばれるようになったようです。日本でもメトロと呼ばれていますね。一方、本場イギリスでは、地下鉄の通るトンネルのチューブ状の形からメトロではなくチューブ(Tube)と呼ばれています。

 

6、ロシアとイギリスの貿易の始まり!モスクワの新名所ザリャージエ公園のなかのThe Old English Courtyard(Старый английский двор)

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△16世紀エリザベス朝建築の建物は、かつてロシアにおいて初の英国商人、初の英国大使であった人物の館として使われていたそうで、現存するモスクワで最も古い建物のなかのひとつに数えられています。英国とロシアの貿易は1553年、英国人航海士リチャード・チャンセラー(Richard Chancellor)が英国からインドへの北海ルートを探っていた際に、思いがけずアルハンゲリスクへ到達したところから始まったと言われています。すぐにイワン雷帝に知らせが届き、Chancellorはモスクワへ招かれて大変もてなされたそうです。ロシアの都市と関税なしで自由の貿易できるという友好的な貿易関係のなかで、イワン雷帝がエリザベス1世に結婚を申し込んだものの丁重に断られてしまったという逸話も残っています。現在のエリザベス2世の治世になり、女王とフィリップ殿下がロシアを公式訪問した1994年には、この建物がミュージアムとして公開されるようになりました。

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さて、時を経て19世紀の産業革命真っ只中のロシアにおいてイギリスとの貿易で大成功を収めたのがクノップ家でした。ドイツからロシアに渡り優れたビジネス感覚で大富豪となったクノップは、これまでの施設の近代化が進められ、新しい施設も次々に建設されるロシアへ、イギリス製の設備や機械を大量に供給しました。その勢いは“どの教会にも牧師がいるように、どのプラントにもクノップ社製品がある”と言われるほどだったそうです。ルター派教会の信者だったクノップ家は、ルター派教会から近いコルパチヌィ横丁にクノップ邸(Главный дом усадьбы А.Л. Кнопа)を構えました。ボリシェヴィキ革命後はロシアから逃れ、この大邸宅は国営化されました。1990年代には、実業家ミハイル・ホドルコフスキーが創設したメナテップ銀行がこの邸宅を購入して改装し、石油会社ユコスのレセプションハウスとして使用されていましたが、会社はその後国営企業ロスネフチに吸収されました。(写真は☆Discover Moscow より)

 

7、プーシキンも通った!トヴェルスカヤ通りの旧イギリス・クラブ(Английский клуб на Тверской)

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△帝政時代には貴族たちの社交の場となっていて、1831年から1917年までイギリス・クラブとして使われていました。(ロシアにおけるイギリス紳士のためのクラブは、まずサンクトペテルブルクに誕生し、続いてモスクワのこの場所にできたそうです。)文豪たちの作品にも数多く登場しているイギリス・クラブの建物や内装の美しさは、現在も博物館内で味わうことができます。なんとあの国民的詩人プーシキンが妻のナタリアと出逢ったのもこの邸宅でのダンスパーティだったと言われていますので、目を閉じてそんな華やかな時代の舞踏会を想像してみるのもロマンチックですね。周りには、プーシキンも足を運んだという文学サロン(現在はエリセーエフスキー食料品店)や、プーシキンゆかりのスポット巡りを楽しむこともできます。1917年の2月革命の後に革命博物館となり、現在はロシア現代史博物館(Музей современной истории России)となっています。

モスクワ通信『モスクワで出逢うプーシキン』

 

8、イギリスの建築家によるリニューアルが進行中!ロシア印象派美術館とお菓子工場跡の赤煉瓦造りの建物

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△2016年にモスクワにオープンしたロシア印象派美術館(Музей русского импрессионизма)。印象派といえば“西洋絵画の殿堂”プーシキン美術館、ロシアの画家といえば“ロシア絵画の殿堂”トレチャコフ美術館ですが、これまであまり注目されることのなかった“ロシアの印象派の画家たち”の作品を収集した私設美術館。かつてはボリシェヴィク(Большевик )お菓子工場だったので、小麦粉や砂糖を保管していたシリンダーの形をイメージしている建物になっています。可愛らしい赤煉瓦の工場跡は、イギリスの建築家John McAslan + Partners主導のもとで、モダンな文化スペースとして改装されています。

 

9、喜劇俳優チャップリンが大好き!彫刻家ズラフ・ツェレテリのギャラリー&ジョージア料理レストランのなかのロンドン

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△モスクワの街中にたくさんの作品を見ることができる彫刻家ズラフ・ツェレテリ。尊敬の表れでしょうか、巨大な作品や著名人の銅像を作成してはロシアから世界中に贈られており、在日本ロシア連邦大使館のなかにはステンドグラスや銅版画の大作が、鳩山会館には鳩山一郎像が寄贈されています。

ロシア大使館でNew Year Ballet Gala Consert & Party

鳩山会館で日露修好160周年記念展

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モスクワには、街中にズラフ・ツェレテリの巨大モニュメントや噴水の作品を見ることができますし、2つのギャラリーとアトリエも公開されています。湧き上がるインスピレーションで沢山の作品を創造するツェレテリの大好きなモチーフのひとつが英国の喜劇俳優チャーリー・チャップリンで、ギャラリーの中にはチャップリン作品を集めた部屋もあります。また、レストランには、世界中の都市をモチーフに描かれた陶版もあり、ここにロンドンもみることができます。ツェレテリについては今後のブログで改めてご紹介いたしますのでお楽しみに!

モスクワ通信『モスクワの宝石箱!夏空にきらめく噴水コレクション』

 

10、赤い電話ボックスに出逢える!エヴロペイスキー・ショッピングモールのロンドン・エリアとチャーチル・パブ

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△英国大使館からモスクワ川をはさんで向かいに位置するのが、ショッピングモールのエヴロペイスキー(Европейский)です。“ヨーロピアン”を意味する広いモール内は、中央アトリウムのモスクワから、パリ、ローマ、ロンドン、ベルリンと区画が分かれています。ロンドンエリアには、赤い電話ボックスやビックベンを模したショーケース。ビートルズなどのロンドンを象徴する風景や人物が映し出されるスクリーンも。

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△そして、モスクワ市内には雰囲気のあるイギリス風パブもたくさんあります。第二次大戦時の宰相ウィンストン・チャーチルの名をとったこちらのチャーチル・パブはお店の前に赤い電話BOXが置かれています。お気に入りのパブを見つけてロンドナー気分でビール片手にサッカー観戦もいいかもしれません。

 

16、ピョートル大帝の友人でブレーンとなったヤコブ・ブルース(Jacob Bruce)とナポレオン戦争でロシアを救ったマイケル・アンドレアス・バークレイ・ディ・トリー( Michael Andreas Barclay de Tolly)

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△スコットランドの家系で、科学や軍事戦略に秀でていたヤコブ・ブルース(Jacob Bruce)は、当時のロシアにおいて最も教養のある人物として政治、軍事、外国あらゆる面でピョートル大帝のブレーンの一人となっていました。天文学や自然科学にも知見が深く、かつてモスクワのランドマークだったスハレフ塔(Сухарева башня)にロシアで初の天文台を作りました。また、博識なブルースの蔵書が並ぶ図書館は、現在のロシア科学アカデミーの図書館の元になっていると言われています。錬金術や魔術の使い手としても知られており、18世紀にスハレフ塔のデザインを刷新してその壁のなかに黒魔術の奥義書を埋め込んだという噂がまことしやかに囁かれました。スターリンの命によりこのスハレフ塔が破壊されてしまいましたが、モスクワ郊外モニノにはかつてのブルースの邸宅が残っているそうです。(写真はWikipediaより)

モスクワ通信『夏の展望テラス! ロシア科学アカデミー22階 Sky Lounge』

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△1812年にフランス帝国のナポレオン1世が大軍を率いてロシアへ侵攻しモスクワへ到達しようとしていた局面で、スコットランドの血を引くロシア軍の総司令官だったマイケル・アンドレアス・バークレイ・ディ・トリー(Michael Barclay de Tolly)は、フランス軍との会戦を避けて退却し、敵軍を疲弊させる戦略をとりました。その後、ロシア軍総司令官はミハイル・クトゥーゾフに代わりますが、この戦法が継承され、結果として勝利に導くきっかけを作った英雄として高く評価されています。サンクトペテルブルクのイサク聖堂では、銅像もみることが出来ます。(写真はWikipediaより)

番外編

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世界中で愛されている『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロルが、この本を出版した約1年半後の1867年にロシアを旅していたことはほとんど知られていないのではないでしょうか・・・!キャロルが英国を出たのは結果としてこのロシア旅行だけだったそうです。モスクワではロシア伝統のキャベツのスープを飲んだり、ナナカマドのお酒を飲んだり、旅行記の中には気になったロシア語の単語(とても長い単語”защищающихся”など)を書き留めたりもしていました。

 

参考文献

☆The Telegraph 10 places in Moscow that are surprisingly British

☆Russia Beyond The 12 most English places in Moscow

 

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